岩本町一丁目町会の歴史
昔、現在神田明神のある湯島台地から南へは、江戸湾へ向かいなだらかな山裾が続き、その一円は武蔵国豊島郡福田村と呼ばれていました。
中央区日本橋本町四丁目にある福田神社は、今からおよそ1300年前の和銅4年(711)に京都の伏見稲荷大明神より分社して、福田村に鎮座したと由来にありますから、その当時より福田という地名が有ったことが分かります(福田稲荷神社の由来より)。
私達の町会の旧町名の一つである福田町の町名は、明治2年に行われた行政による町名の設置にあたり、「古来よりこのあたりを福田村と称していたので名付けた」とあります。(東京名所図会・神田区 睦書房)
また、近隣に「神田お玉ヶ池」があったことからも推測されますが、一帯は池や沼地もあり雁ヶ淵とか笹原とも呼ばれていたようです。
天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した後、明暦三年(1657)俗に言う「本郷の振り袖火事」があり、江戸城の本丸や天守閣をはじめ、市街地の大半が消失しました。以後天守は再建されていません。
その後、現在の中央区との区境一帯(町会の南側)には、掘り割りが築かれ「神田堀」「神田八丁堀」などと呼ばれ、延焼を防ぐための防災の拠点となりました。
余談ですが、料亭で有名な「八百善」はこの火事のため、神田福田村から浅草新鳥越に移転したと、同店の古文書に記載されています。
寛文年間(1661~72)になると、この付近は武家屋敷が多く建てられるようになり、中期以降は町屋が増えていきました。
現在の町会の敷地を安政3年(1856)の切り絵図(江戸時代の木版地図)でみると「町会所附請負地」「九軒町」「小伝馬上町代地」「道有屋敷」「幸伯屋敷」などの名前が並び、神田堀を隔てて「牢屋敷」(小伝馬町牢屋敷 現、十思公園付近)
が確認できます。
現在の町名である「岩本町」は江戸時代中期以降から切り絵図等に散見されるようになります。
嘉永3年(1851年)の嘉永新版の神田浜町絵図をみると、藍染川に架かる弁慶橋の南、神田堀に架かる甚平橋の北に「岩本町」(現在の岩本町2-9あたりか)とあります。
また、泉和橋の南西、市橋下総守(壱岐守)の上屋敷の東隣にも同じ町名(岩本丁)が確認できます。(江戸町づくし稿参照)。
慶応4年(1868)に明治維新となり、年号は明治に改元され江戸が東京府と改称されました。
翌 明治2年(1869)には市街地の編成がおこなわれ、現在の岩本町一丁目町会の地域を構成する旧町会が成立します。
東福田町 明治2年~昭和40年 昭和22年(1947)神田を冠する
材木町 明治2年~昭和40年 昭和22年(1947)神田を冠する
東今川町 明治2年~昭和40年 昭和22年(1947)神田を冠する
神田亀井町 昭和8年日本橋区から一部が神田区へ編入
昭和22年、33年に材木町に編入
明治11年千代田区の前身である麹町区と神田区設置され、明治22年には現在の23区部に東京市が成立します。
大正12年の関東大震災の後、昭和初期に区画整理があり、現在の町並みが整いました。
※写真:昭和11年 神田祭の様子
昭和18年には府と市を廃止して東京都となります。
昭和20年2月25日には、米軍による激しい空襲で町会のほぼ全域が消失しました。
その後8月15日に終戦をむかえます。
昭和22年、地方自治法が公布され、東京都の35行政区は現在の23区に再編されました。
焼け野原となった東京ですが、戦後の復興はめざましく、当町会でも昭和31年に現在の大神輿が造られています(所有名は「福材睦」)。
※写真:昭和31年 神田祭の様子
昭和40年7月1日、住居表示の変更があり上記3町会の全域が「岩本町一丁目町会」となり、今日に至ります。