岩本町一丁目町会(東京都千代田区岩本町一丁目:いわいち)の公式ウェブサイトです。岩本町一丁目町会の情報を随時発信していきます。

神田祭

神田祭と御神輿

神田明神

神田祭は、『江戸三大祭り』(山王祭り・神田三天王祭)、『日本三大祭り』(京都の祇園祭・大阪の天満祭)の一つであり、江戸期には『天下祭り』と呼ばれていました。これは神田明神の持つ歴史や伝統(天平2年ー730創建)、徳川幕府のお膝元である江戸のご城下町を中心に広い氏子地を持っていたこと等が挙げられますが、今私たちが行っている町のお神輿を中心としたお祭りの形式になってきたのは比較的最近のことです。神田祭りがもっとも華やかだった江戸期において、神輿とは神社が所有する神輿(宮神輿)のことで、各氏子町は『山車』をつくり行列を組んで宮神輿に供奉する形式を取っていました。

『山車』とは、天空に坐す「神」に降臨していただく為「山」を造り、その「山」に「神」が降りてくる「標木」(しめぎ)を立て「依代」(よりしろ)とし、これに車を付けて曵き廻せるようにしたものです。後年「依代」の上部に飾りを付けて山車人形とし、神に縁のあるものや、町名にちなんだ人形や歴史上の人物等を乗せるようになります。

徳川幕府は、天下普請により江戸城とその町並みが整うと、将軍家のお膝元にふさわしい盛大な祭禮を希望したようです。そこで江戸の総鎮守として神田明神を、徳川家の産土神として日枝山王神 社を大切にし、それぞれの祭りを隔年に行うようにしました(天和元年ー1681)。そして元禄4年(1688)神田祭りの行列は江戸城内に入って将軍家の上覧を仰ぎ、以後『天下祭り』として栄えています。

幕府は各町会へ祭禮費用の援助や貸し付けを行い、道筋には人留の柵を結い祭り行列への便宜を図りました。

各町会はその資金で『山車』行列の他に『附け祭り』を行いました。『附け祭り』は定番の人形を乗せていた『山車』と違い、その年々で流行の歌や踊りを披露(踊り屋台・底抜け屋台)したり、大きな「曳き」を造って練り歩いたり、また『学び』と称した仮装行列等を行うもので、時の将軍や大奥の御女中も御上覧になりました。

これにより、祭の評判はさらに高まり、祭禮が近づくと『神田明神祭禮番附』というような「かわら版」や「錦絵」が出され前景気を煽りました。

この様に華やかに行われた神田祭ですが、明治維新により大きく様変わりをします。新政府の祭に対する規制や、文明開化による街並の変化、運営資金の逼迫などで『山車』の維持が難しくなり、破棄されたり地方の都市へ流出していきます。明治維新後、神田祭で最も盛大に行われた年は明治17年9月15日の祭禮で、神田・日本橋の氏子町から45本の『山車』が参加して行列をつくりました。

この時「岩本町一丁目町会」の前身である「福田町」は、「大国主命の山車」でこの祭りに参加しています。

東京での大規模な山車巡行は、明治22年2月11日の「大日本帝国憲法発布」を記念して行われたものが最後で、この時は東京中から100本越える『山車』が皇居前に集まりました。

これ以後、「山車の祭」は徐々に神田から消えていき、残されていた『山車』の多くも関東大震災や大東亜戦争により失われました。

変わって各氏子町は、維持や移動が楽な『曳太鼓』や、町会自前の『町神輿』を造って祭に参加するようになります。

『曳太鼓』は小型の台車の四方に勾欄を廻し、太鼓を取り付けてその上に鶏を飾ったものです。この『曳太鼓』は、江戸期天下祭の一番山車である「大伝馬町の諌鼓鳥」の意匠を簡素化、縮小したものです。

また、明治42年の深川祭に、大小合わせて54基の神輿が繰り出して評判となった頃から、『町神輿』が東京の祭の主役となっていきます。
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※写真:昭和11年 神田祭 山車

昭和27年、戦後初めて神田祭が再興され、29年には一部の町神輿の宮入が行われました。これにより祭好きな神田っ子の心に火が付きます。

昭和30年から40年頃に掛けては、戦後の復興期とあいまって空前の神輿製作ブームとなり、町神輿で宮入をする祭のスタイルが確立します。当町会の大神輿も、「この流れに遅れてなるものか」の心意気のもと、当時の町会員が造立費を集めて昭和31年5月に新調されたものです。

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市川市行徳の神輿師「浅子周慶」作・二尺三寸の大神輿で、堂羽目部分には「素戔鳴命」や「奇稲田姫」の「八又の大蛇退治」など日本神話の彫刻が施され、屋根紋には神田明神の御神紋の「流れ巴」が意匠されています。

2013年05月10日_IMG_0469

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