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神田八丁堀

神田八丁堀

昭和十年頃の神田区の地図を開くと、皇居の北東 日本橋区との境に一筋の掘割を見ることができます。
この堀は竜閑川(りゅうかんがわ)と呼ばれ、当時 材木町と称した川筋の町には材木商の倉庫が並び、川を利用した木材の運搬・繋留などがおこなわれ、物流の動脈となっていました。

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この堀の歴史をひもとくと、江戸の初期 明暦の大火までさかのぼります。

明暦三年(1657)の11月18日未明に発生した俗にいう「本郷の振袖火事」とよばれるこの大火は、江戸城の本丸をはじめ、大名屋敷や寺社・町屋の大部分を消失し、死者10万余人を数えたといわれる大災害でした。

 

この大火の後、まず防災のために八丁(約87メートル)の土手が築かれ、その後 天和から元禄四年にかけて明地に掘割を開削し、これを「神田堀」または「神田八丁堀」と称しました。

「神田八丁堀」は安政四年(1857)に埋め立てられましたが、明治十六年(1883)に再び堀を開き、竜閑川と名付けられました。

 

竜閑川は皇居の外濠を鎌倉河岸付近より分かれ、北東の橋本町(現 東神田一丁目)方向に流れています。江戸期にはここで新堀(後に浜町川)とぶつかり、直角に流れを変えて日本橋浜町方面へ

向かい、大川(隅田川)へと注いでいましたが、明治になると北北西に流れる水路も作られ、岩井橋、大和橋を経て神田川ともつながっていました。

 

竜閑川には西より「竜閑橋」「白旗橋」「西仲之橋」「今川橋」「東仲之橋」「地蔵橋」「火除橋」「久道橋」「甚兵衛橋」「小出橋」が架かっていました。

川は終戦後に埋め立てられ、架かっていた橋も廃橋となり、今日では当時の面影を残すものは見ることができません。

 

「神田八丁堀跡」の標識は、かつて「地蔵橋」が架かっていたあたりで、「地蔵橋東児童遊園」内に置かれています。

 

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